揺らめく日々を生きる

もう一度、世界と触れ直す。

「今を生きるための現代詩」を読んで。

「今を生きるための現代詩」

講談社現代新書/渡邊十絲子

 


何か新書を読みたいと思った時。

インテリジェンスの片鱗に触れ、教養を得たいと思った時に、私はなんとなく講談社現代新書を選んでしまう。

あれはいったい何故だろう。

デザインのシンプルさも好みではあるが、個人的に「日常生活を教養から紐解いてくれる」ような期待を持って臨んで良い本が多いから、というのが一番の理由である気がする。


文章の中身に加えて身近な問題に、教養の視点から切り込むことが出来るようになる、という知性の運用の仕方についてもメタ的に伝えてくれているような、そんな雰囲気が講談社現代新書からは伝わる。そのせいか、時事問題に明るい新書も多いように思う。


インテリジェンスを以って人生に果敢に立ち向かう姿に私は憧れてしまう。教養を、ただの趣味にせず、生きる知恵として巧みに操ることが出来るような人になりたい。

その憧れの元は、同じ講談社から出版もされている、「万能鑑定士Q」シリーズの凜田莉子がルーツかもしれない。彼女も、自らの興味の強さから得た多くの知識をロジカルシンキングで活用する鮮やかな主人公である。

教養、というものへ臨むモチベーションがフィクションにあることは、知識人から見れば薄っぺらいと思われてしまうだろうか?けれど、この憧憬は確かに情熱を伴って胸の内にある。ならば、他者の目を気にせずに、堂々と知識に触れるのが今の私に出来る最善策だろう。目指すは、万能鑑定士…というのは、流石に難しいか。


新書の話に戻す。

今回感銘を受け紹介しようとしている本は、現代詩の新書である。


この本を読むまでの私は、現代詩、という言葉にどこか気恥ずかしさを感じていた。詩的である、という言葉は現代において揶揄の意味合いで使われることの方が圧倒的に多いからだ。

ポエミーと英語にするとよりその意味合いが強まる。詩とは、現代日本の若者のコトバとしては、感情を過剰に表現している状態の揶揄にされてしまっているように思う。


だからこそ、現代詩、という存在を私は見失っていた。学校の授業で習った覚えも、ほとんどない。小学校のとき、一回だけ谷川俊太郎の詩に出会った。けれど、ああ、平和のことを言い換えて見ただけだな、と軽く流してしまい、心には響かなかった。きれいすぎるものは、当時の私には薄っぺらく感じたのだ。そうして中学に入ってからは受験対策に時間を割くことになり、詩のページはトンと開くことがなくなった。

 

 

著者は、序章で「現代人はどこで現代詩とはぐれたのだろう」と語っているが、私の見る限り、実際はもっと酷く、「現代人はほぼ出会っていないも同然であり、そして不本意なレッテルの代名詞にしてしまっている」が現状のような気がしている。


そんな風に現代詩との関係性が全く無かった私であるが、ここ数年で好きな作家さんが詩の本を出していたところから私は現代詩と出会った。おーなり由子さんの「きれいな色とことば」、江國香織さんの「すみれの花の砂糖づけ」である。

そして、決定打として現代詩を知りたいと思わせたのは、今、最も若者に近いところで現代詩を作っていると思われる作家、最果タヒさんの詩に出会ったことだ。

彼女の詩は、孤独を抱きかかえるように、時には切り捨てるように文字を操る。彼女の詩からは、常に自分と世界は切り離されているのに、自分は世界の中にいるような感覚を得る。その感覚は、今までの人生で私が得てきた感情に近似しているように感じた。


彼女の詩から、私の詩の概念は大きく覆った。

文章術や、小説の書き方などの型の無い、自由な日本語。平和や愛、きれいなものだけでなく、孤独や痛みをも内包できる、自由なことばたち。

その自由さに私は一気に惹かれた。そして、もっと知りたいと思った。

そうして私は、この新書を手に取ったのである。

 

 

前置きが長くなったけれど、そうして読んだこの本は、今でも時折読み返すバイブルになっている。それは、この本が単なる現代詩の紹介に留まらず、現代詩から私達は何を得るかを明確に提示しているからである。そのあたりはさすが講談社現代新書、と行ったところか。


この新書で紹介される詩は、どれも面白い。

私が今までに見たことのなかった、そして、見たかったものがそこにはある。

私の知らない、日本語がそこにはある。

それは、歓びでもあり、同時に恐怖でもあるだろう。事実私は、嬉しい気持ちのなかに慄く私を見つけていた。

何に慄くのか、ただの言葉たちに。

そう思うかもしれないが、今まで学んできた文というものは、段落があり、前後の文脈をつなぎながら伝えたいものをいかに上手に伝達させるかを突き詰めるためのものだった。

若い頃から鎖に繋がれた象は、老いてから鎖を外されても鎖に繋がれているかのように動けぬままでいる、という逸話があるが、まさにそのようだった。日本語とはこうあるべき、という鎖を解かれても、私はその自由さを喜びながらも、どう歩くべきか考えあぐねてしまっていた。


きっと、ただ現代詩に触れただけなら、私はそこで終わっていただろう。不思議なものを読んだ。ただそれだけ。けれどこの本は、鎖を解いた私の手を取り、現代詩の自由な世界の歩き方を教えてくれたのだ。


現代詩を、きちんと読み解く授業なんて、習ったことあっただろうか。稀有な体験が、この本には詰まっている。


一箇所、私だからこそ、という視点で一つ、胸に迫る箇所があった。川田絢音の詩を引用した章である。

彼女の詩がなぜこんなにも孤独に映るのか。それは、彼女が優れた詩人であるからで、孤独こそが人の精神を高みへと連れて行くのだ、という話である。そこから引用したい。

 

 

 


詩を書いて生きていくというのは、人から遠く遠くはなれたところに飛んでいき、目のくらむような、光りかがやく孤独を手にいれることなのだろう。

 

 

 


この言葉は、私の人生の中でこれから先も寄り添ってくれる言葉のような気がした。


孤独とは、現代社会において邪悪なるものである。

共に生きることで繁栄した人間という存在において、繋がらずに相互協力のできない状態は憎まなくてはならないのだろう。種としても、社会としても。

だから、常に私達は繋がりを求める。傍らに人の存在がなければ、SNSへと繋がりを求め、そして友人たちを誇示するかのように煌めく写真の数々を見ては歯がゆい思いを抱く。この世は、孤独を憎むことで窮屈になっている。


けれど、この言葉では、孤独は喜ぶべき光そのものである。きっと詩人だけではない、絵にしても、音楽にしても。あらゆる表現者は、自分だけの羽をつけて高みへと登りゆくものだけれども、その羽の一つに、きっと孤独というものは強靭な力を持って存在するのだろう。


ならば、逆に言えば、孤独な者は、表現者となることで孤独を自らの強みに変えていける、ということではないだろうか。

 


私は、発達障害によるコミュニケーションの問題で、かなり人と浮いた生活をしてきた。それはこれからも変わらないし、私のそばにはいつだって、どこか孤独が付きまとうのだろう。


その孤独と、和解するために必要なのは、表現なのだろうと、この本を読んで思ったのだ。

だから私は現代詩というインテリジェンスを脳に詰め、これから先を生きるよすがとしてこの知識を使いこなしたい。

まさに私にとって「今を生きるため」に必要な現代詩だった。

 

 

私の人生の傍らに潜む孤独。

それを飼いならすために、私は今日も文を紡ぐ。

それは私自身という未知への探求であると共に、私なりの、生存戦略でもあるのだ。