揺らめく日々を生きる

もう一度、世界と触れ直す。

しみくれ「358日」観劇記録。

ご縁がありまして、舞台を見て参りました。

しみくれさんの「358日」

久々に舞台を見る…というよりも本も最近新書ばっかりだったから、創作物に触れること自体が久々でした。物語を見ることの素晴らしさ、そしてそれを生身の人間が演ずることの力強さを再認識。

やはり舞台っていいものですね。

しみくれさんの舞台は初めてなのですけど、いろんな工夫があって楽しい舞台でした。

 


乱雑ですが記憶が褪せぬうちに感想を残します。

ネタバレありまくり。

未観劇の方気をつけて。

 

 

 

・トリッキーな客席配置

しみくれさんの舞台、他作品でもこんな感じなのかな?客席が舞台ゾーンを取り囲むようにL時に配置されてるんですよね。これが面白かった!いわゆる第四の壁への挑戦なのだと解釈しました。あんまり観劇しない私ですけど、こういう実験的なもの大好きです。

プロセニアムアーチをぶっ壊そうとするとメタ発言でギャグにするとか客席から演者を出すとかそういうのがよくある手法だけど、舞台と客席を可能な限りフラットにする、という手法なんですね。

 

 

 

・選曲がめちゃくちゃに好みだった。

オープニングとラストの曲、なんの曲だろう…。パッと思い出せないけどちょこちょこ挟まるエレクトロ系の曲が良いアクセント。

あの曲家でも聴きたいなあ。曲名知ってる方いたら教えてください(他力本願)

 

選曲者ほんとにセンスが素敵ですね。

絶対この選曲した人、中田ヤスタカRAM RIDERFreeTEMPOJazztronikCTS履修してると思う(超偏見)

 

 

 

・ストーリーが昨今の情勢にはまり込みすぎててもはや怖い。

政治の話題を盛り込むのは好みが分かれるところにはなりそうだけれども、その良し悪しを通り越して現実へのカウンターとして機能しているのが良い。コロナ前に作られたお話のはずなのに、この情勢下でさらに輝く話になっている。奇跡。

いえ、ストーリー自体はまったくもって現政権の話とかはしてない、架空のディストピアの中のお話なんですけどね…。

 

 

 

・役と役者がハマりすぎている。

主演の男の子、ゲーマーやりたいって言いそう〜〜笑、って思ってしまった。(主演の方ごめんなさい悪い意味ではないです)

妹さんの天真爛漫そうなところや、宇宙人志望の方の得体の知れなさなど、どのお方もはまり役。

おそらく、役者さんの普段の雰囲気や口調などからキャラクターを作り出した、いわゆる当て書きなのかな?となんとなく思った。この辺りの制作過程聞いてみたいなあ。

役者と役がそれぞれしっくりとハマっているからこそ、入り組んだストーリー展開もすんなり観れる気がします。脚本家さんと役者さんの互いの信頼関係がないと作れない脚本だなあ。

 

あとこれは本当に個人的意見なんですけど。

今回の舞台、男子キャラが全員お茶目というか個人的にツボでした。

みんな童貞っていう謎の設定もなんとなくうなずけてしまうキャラ設定と演技でした。

個人的に反体制的な、圧力と戦うぞ!って話は苦手なのですけど今回スルッと観ていられたのはこの戦う子たちが元来は心優しい、穏やかな子たちだったのだろうな、と感じさせる雰囲気があったからなのかもしれない。

 

生きようとする渇望とそれでも誰かを傷付けたくはないという姿勢。その2つを両立させながら反旗を翻すという心優しい嘘に溢れたストーリー。

そういうお話にピッタリの役者さん達がよく揃ったものだな、と。

まとめると役者さんとキャラの力が抜群だったって話です長ったらしくごめんなさい。

 

 

・ハルさん最強説

 

もう完璧にネタバレなんだけど。

 

 

 

今回の一番のMVPだったと思ってます。ハルさん。いわゆるグッドコップバッドコップの良い方。

 

ハルさんの演技は「完璧な味方」なんですよ。

まるで心理カウンセラーのような。

心理カウンセラーは患者に信頼されないと成り立たない仕事だから。

 

そういう、「誰からも信頼される振る舞い」というものを完璧に体現していた。

 

そして、正体が割れても何一つ振る舞いがブレることがない。何一つ振る舞いは変わらないのに、その意味合いが全部変わって見える。

この難しい役どころを作り上げた脚本家さんと、そしてそれを演じ切った役者さんに称賛しかない。

 

 

 

総括して、演劇離れしてた私もじっくり楽しめた素敵な舞台でした。生のパフォーマンスってやはり素晴らしい。その中でさまざまな工夫、実験性が織り込まれていてギミックの楽しい舞台でした。

さらにほぼ出ずっぱりな役者の皆さん本当にすごい!

ほとんどの人がそうだけど特に主演の方は出てないシーンほぼ無いレベル。

ほとんど全てのシーンで常に誰かが何かを表現している、緻密な舞台でした。お疲れ様です。

本当に素敵な舞台でした、しみくれの皆さんありがとうございました!

おづまりこさんの新作を読んで。

何にもないことはないのだけど、特に日記を書いていなかったのは充実した疲れた共に、毎日が「ああ、いい日だったな」で終わっていたからかもしれない。

 

そんなわけで私は今そこそこに幸せなのでした。

通院も回数は減り薬の服用だけを守れば安定している。

細木数子が9月に「アンタ、新しいこと始めるなら今よ!」と本で言っていたので(意訳)。

仕事も変えたら、まあこの仕事が私には楽しいこと楽しいこと。

家に帰れば、好きなオンラインゲームの中で友達が待っています。

 

そう、今の私は穏やかな幸せの日々。

逆に言うと目新しいことは何も無かったのです。

あまりにも、静かに幸福だったから。

 

ただ久々に筆を取りたくなったのは(もう慣用句にキーボードを打つ、で文を書く意にならないかしら)そんな何気ない日々を素敵に描く作家さんの新作が出たからです。

 

おづまりこさん。

 

一人暮らしの日々を、優しく楽しく描くコミックエッセイの作家さんです。

そう、実は、このお方の本を読んで、私は一人暮らしを決めたのです。

私も、こんな暮らしがしたい!って。

 

おづまりこさんが描く生活は、本当に豊かなのです。

カフェに行くのも、私なら適当に済ませてしまうところを、おづまりこさんは素敵なところを探して行ってみたり。

面倒だなーと私なら思う料理を、おづまりこさんは楽しそうに描く。

 

こんな、毎日が楽しい日々になるひとり暮らし、私も目指すぜ!なーんて思っていたりしたのです。

 

ひとり暮らしも一年半が経ちましたが、料理の腕はまあまあ上がったかも?ただ、おづまりこさんとは違った形で、そこそこに楽しい日々を送ってます。

 

今回の新作、「ゆるり より道ひとり暮らし」はたくさんのキラキラに満ちているおづさんの生活をまた垣間見れて、私は大満足なのです。

毎日、幸せだけど特筆すべきことはないなあ、なんて思ってた私に、こーんな楽しみ方はいかが?なんて提案をして頂いている気分です。

そして、ひとり暮らしを決めた時のドキドキ感が少し戻ってきたりして。

 

お仕事が楽しい!ゲーム楽しい!

の二種で埋め尽くされてる私の日々だけど、

もっともっと、探せば楽しいことはあるはずだものね。

 

まずは、おづさんのまねをして、ちょっと素敵な缶チューハイを冷蔵庫に忍ばせてみようかな。

そして、次の休みまで、楽しみに取っておいたりしてみよう。

 

たぶん、缶チューハイを飲んだ時に、私はこう言うんだ。

 

「あー!幸せー!」って。

 

 

 

WAISテストを受けてきた。

WAISテストを受けてきた。

 


WAISテストとは、いわゆる知能指数をはかるものである。知能を大きく四分野に分けた上で、その分野ごとに成績を出し、最終的なIQを計測する。

もちろん高ければ頭は良いし、極端に低ければ学習障害や知能障害が疑われる。

ただし、発達障害についてはただ高い低いだけが判断基準とならないらしい。

 


基準にさらに、高低差が加わる。

どうやら、普通の人はどの分野においても顕著な差は見られず、平均値からどの数値もあまり離れない。つまり、偏差が小さくなるそうだ。

 


検査結果は2週間後に出てくる。それまでは、ちょっとだけ悶々としながら生きようと思う。

 


あんまり、内容をバラすと他の人の検査に関わるので内容については触れずに感想を述べたい。

 

 

 

 


答えを見れるわけでも、結果を見たわけでもないのだけれども、正直うまくやりすぎてしまったような気がする。

1時間半から2時間ほどと言われたはずのテストは1時間で終わってしまい大幅に時間を余らせてしまったし、どの分野においても大きな答え詰まりはなかったはずである。

しいて言えば、記憶力や言語力系にちょっと答えられないものがあったのが難点なのかもしれない。

が、本来これは全部答えが出せなくても良い問題たちらしい。

 


割と解けてしまった。つまり私は発達障害では、ない?

 


まあ、結果を見ていないから今はまだ悶々とするしかないのである。

というか、割とうまくできちゃった〜なんて自己主張強すぎだろ私。

 


それに、発達障害は外れても双極性障害の方はWAISで除外されることはない。

結局私は、やべーやつであることには変わりない。

 


さあ、このやべーやつでも現代社会で生きれるよう、どうにか私に何か案を提示してくれ、お医者様。

人生の中にようやく見出した光明は、あなた以外にいないのだから。

夏の始まりは魔法に包まれて。

曇りから雨の予報は、今の所外れている。

日照時間があまりにも少ない2019年の梅雨。
今日、7月19日は雲間から青空の覗く晴れ模様になっていた。鬱々とした予報は、今のところは大ハズレ。けれど、この後から崩れるのかもしれない。

きっと今日が、今年の夏の始まりの日。
そう思わせる気温と光に包まれた日だった。
毎年毎年、ああ、この日が夏の始まりだ、と感じると、やたらと情緒豊かになってしまうのはなぜだろう。
そしてやたらと、世界がきらめいて見えるのはなぜだろう。

私の好きな詩人の最果タヒさんの詩に、こんな一節がある。

「全ての時間は±夏。
ぼくの人生は死の間際になって、
何もかもまるで夏のようだったとぼくに錯覚させるだろう。」

年末の詩 より抜粋


そうかもしれない。もっとも天国に近い、きらめく季節、夏。私たちは、夏と、夏以外の日だけを生きているのかもしれない。それほどまでに、夏というだけで、何もかもが尊いのは、それは夏に魔法をかけすぎだろうか。

今年の夏も、ただただクーラーの効いた部屋の中で涼やかに生きるのだと思う。
暑い暑いと、グダグダ言いながら仕方なく出かけるのだと思う。
文句ばっかり言うけれど、けれど外のきらめきは、今だけの特別なものだ。
そのきらめきに、私は毎回毎回、心を揺り動かされる日々が今年も続くのだろう。

やっぱり、夏は嫌いで、好きだ。

今年も夏がやってくる。

凪の海から紡ぐことばたちは

文章の重みとはなんだろうか。

文字の密度で決まるのなら、私はいくらでもかさ増しができるだろう。簡潔よりも冗長を取るなら、私にだって簡単に無駄な文を作り出すことが出来る。けれどそれは、重みではない。ただの薄めた、貧乏性のカルピスみたいな、そんな軽いものである。私が書きたいのは、そんなものじゃない。

私の書きたいものは、過密に綴られた一つ一つの文字から怨念とも言うべき重みを感じさせる、気迫のある文。それを私は求めている。

 

けれど、私が発達障害だと診断された直後の文は、相応に力あるものだったのに。

最近書いている文は、どこか柔らかすぎるようにも感じて、自分はこういう文も書くのか、と戸惑ってしまっている。

 


私が書きたい、私を的確に表した、私ならではのものは、相当な密度になるだろうと予感している。私がはてな匿名ダイアリーに書いたものは相応に重みを感じた。

 


私はみぞおちを抉り込むように殴り貫かれたい。重みのあるブローを受けたい。そのブローとは、自らの手で繰り出されることもあれば、外から加えられることもある。その衝撃を得たい。そしてその内から吐き出された反吐を形にしたいのだ。今はみぞおちを抉り込む何かが足りない。自分を殴っても、誰に殴られても、今の私には、響かなくなってしまった。

 


穏やかな毎日は続く。それは幸せなことなんだろう。けれど、私は私らしさを私の中で渦巻く混沌に寄りかかって作ってしまっていたんだな、と気付く。私は、悩んでる私自身を好んでいたんだ。

 


というよりも、幸せな自分自身、穏やかな自分自身を想像できていなかったんだと思う。

穏やかな日々を夢見ていた。

心に吹き荒ぶ嵐のような感情が、いつか止んでくれたらと願っていた。

けれど、心が凪いだ海のように静寂を得れば、どんなに帆を揚げようとも船は旅立てない。

今の私は、たった一人で無風の沖に呆然とボートの上で立ち尽くす、漂流者だ。

 

 

 

それほどまでに鮮烈な体験だったのだ。

私がいなくなればいい。私が間違ってる、私だけがおかしいのだと自分を責め続けた日々から急に解放されて、あなたのような人は、たくさんいると、あなたも世界の正しい一員なのだと知らされるということは。

私にとって、発達障害であると知ったことは、私もこの世界で生きられるという喜びの報せであり、アイデンティティの喪失でもあったのだった。

この世界が美しいことは事実であり、私の目が、私の存在が歪んでいるからこそ澄んだ世界で生きられないのだと思っていたのに、急に貴方もここで生きて良いと言われても。

私は私自身に違和感を持っている。だから、まだこの世界で生きて良いかどうか、実感がわかない。

 


今の私は、凪いだ心象に戸惑うことしかできない。暴風に突き動かされるようにして荒々しく紡いだかつての文たちに、何もかも勝てない。

文の強度が違うのだ。

あの、吐き出すしかないほどにこみ上げた思いたちが形を成すあの感覚を、今は薄らかにしか得られない。

 


私が夢見るのは、この凪いだ海の中で、いつか昔のような力ある文を書くことだ。誰に読まれるでもなく、私の自己満足として。

いつの日か、この凪いだ海の上で、煌めく波間や、魚が跳ねた水音、遠くの島の緑を美しく私の世界のものとして描けるようになる日が来るだろうか。

この美しい世界と、私を同列に語ることができるようになるだろうか。

そして、私はいつか、自らの手で、オールを漕ぐことができるようになるだろうか。

美しくきらめくような言葉たちを詰め込んだ、幸福に満ち溢れた文を連ねることができるようになれたら。

そして、その美しい世界を、私も軽やかに進めるようになれたら。


そうなれたら、どんなに幸せだろう。

 


今の私には、まだ夢見ることしかできない。

ただ凪いだ海に戸惑うだけ私が紡ぐ文は、まだ、弱々しい気がしてならないのだ。

ここ最近の私が書いた文は、何か、薄っぺらい。

まあ、毎日毎日、力ある文を繰り出せるようになるのは、相応に鍛錬も必要なのだろうけれども。

 

 

 


ただ一人、今はボートに乗り、沖の上で揺蕩うことしかできない。

 


けれど、今は確かに信じているのだ。遥か彼方に私の行くべき陸地があることを。

 


それだけで、今は幸せなのかもしれない。

 

 

 

アプリにスケジューリングをお任せしよう。"Sorted3"

柏谷さん、スケジューリング苦手でしょ。

その言葉にズキッと胸が痛んだ。

図星だった。

 

 

 

 


上司にスケジューリングが苦手だと指摘されているのはここ最近ずっと。

新しい仕事は自分の裁量で動ける分、スケジューリングが重要になってくる。個々で自由に動ける分、無駄なく時間を使えよ、ということなのだけれど、これがまあ壊滅的にダメでダメで仕方ない。

 


上司の意見としては、

・先の見通しが分かっていれば他の同時に片付けられるタスクも見つけられる。

・どこまで終わるかの概算があれば持ち越す仕事の量もわかる。

・一件一件の仕事の時間量の概算が立てれば早く終わった時により仕事量を詰められる。

とのこと。むむむ、正しすぎる。

そう、上司の言うことは正しいのだ。正しすぎる。

けれどその正しさは、正しく生きれない私にとっては毒である。

 


私の残念な現状は以下の通り。

・先の見通しを立てると全案件で一番興味がある話題ばかり考えてしまうので、逆に今せねばいけないことを忘れてしまう。

・大抵何かやらかすのでスケジュール通りに動けず明日の見通しまでつかない。

・一件ごとに時間制限があるとその焦りで異常にパニックになってしまうため逆に時間がかかる。

という有様。そう、つまり一点集中型なので同時並行にすると優先順位がつけられずにわからなくなるのであった。

 

 

 

 


さて、話は変わるけれど、私はもう一つ悩みがあった。

習慣が根付かないことである。

寝る30分前までに読書を済ませたい。

1日のどこかで部屋の片付けをしたいし、それと、プロテイン飲みたい。あ、そうそう、ゴミ捨てもきちんと行って、あとそれから…

 


って言っているうちにぜーんぶ忘れるのである。

 


もう笑ってしまうくらいに。そのために、子供の頃から、物事が長続きした試しがない。すぐ飽きるか忘れる。なので習慣なんてなかなか身につかないのであった。

 

 

 

 


ただ、あ、障害のせいなんだ!!って気づいたのはいいことだけれど、障害のせいだから…と諦める理由、逃げる理由にしていくのは違うな、と思う。

気づくのはいいことなのだから、それを踏まえたアプローチをしていけばよい。

 


なので私は、楽しよう!を合言葉に、To doリストアプリと習慣トラッカーを探し始めたのであった。

ノートにすると、わざわざノートを出すっていうところから億劫がるから、スマホに全部データは収納すれば問題ない…はずである。

 


というわけで、最初は普通のTo doアプリと習慣トラッカーをダウンロードし、使い始めたのであった。

 

 

 

一週間保たなかった。

笑ってしまう。

iPhoneのドックに二つとも入っているのに、そのうちに背景と化して忘れ去ってしまうのである。

結局、スマホを使ってもめんどくさがってしまうのであった。

 

 

 

そうやって、なあなあになってまた散漫な日々が続いていた。

 


が、前回の片付けを機にこれはもう一度生活を立て直すチャンス!と再チャレンジを誓ってみたのである。

 


そんなわけで、前回の失敗の訳を考えてみると以下の通り。

 


・2つのアプリに分かれてるのが面倒

・サクッと入力できない(数回タップする)

・デザインが好みじゃなくて気分が上がらない

 


という点が大きい。

そんなわけで、もはやこれは1つのアプリに統合して、Todoも習慣もまとめられるようにした方がいいな!と考えた。

 


ちょうど仕事でスケジューリングが苦手と言われていたのもある、だったら使いやすいTo doを駆使して1日の流れをざっくり作り、練習してみよう!という気持ちもある。

 


なので私が求めるアプリは、

・サクッと入力できて

・習慣みたいなルーティンも入力できて

・デザインが良くて

・なおかつ1日のスケジュールを作れる!

もうね、10代の思い描く理想の恋人かな?みたいなアプリを追い求めていたのである。

 

 

 

そしてついに出会ったのが!!

Sorted3!!

App名: Sorted³、デベロッパ: StaySorted Limited https://apps.apple.com/jp/app/sorted/id1306893526

 


これ本当にオススメなんです。

まず、入力画面がサクッとしてて好み。

開くとすぐに1日のTo doがまとめられてて、そこにチェックを入れるだけの簡単操作。

ワンタップでいいのが良いよねえ。

UIが使いやすいのもあるけどデザイン自体も悪くない。シンプルでモダン。私の好みである。

 


そして登録するTo doは繰り返し設定が可能!

というわけで習慣にしたいことを時間ごとにざっくざくと登録しちゃうのでした。

 


さらにここからすごいのが、それぞれのTo doには実行するのにかかる時間を入力する欄があるんです!

これはスケジューリングの見立てが鍛えられますぞ…。

そして時間を入力するとオートでスケジュールを組んでくれるのです!

これは感動。私のスケジュールがさらっと形になっていく!

あとは上から順に時間通りに進めるだけ。

もうもはやこれは映画、イーグルアイのような世界観である。すげえな現代。

 

このアプリ、ADHDの私にはもう神のようなアプリである。入力してさえおけば、もうあとは見ながら物事を進めるだけ!あれしなきゃなあという考えを片隅に置かずに済む、というのは、普通の人でもそうだろうけどADHDにとってはかなりの救いなのである。


そんなわけで便利なアプリとともにちょっと楽して生きてみようと思います。

功を奏して、来年の今頃はちょっとさらに素敵な人間になれてたらいいなあ。

 

ADHDの私はこんまりメソッドで新生活を歩めるか?

驚くほどに片付けができない。

 


小学校の時は片付けができず物をよく落とし、柏谷ボックスなるものを作られクラスのみんなから落し物をそこに入れるように教諭から指示をされたこともある。

 


当時は便利だなあと思ってたけど後から悪意があったのかな、とも思っていた。今考えると、悔しい!って思わせてそこからの更生を狙ってたんだろうな。けれど、恥ずかしいとか悔しいと思うよりも前にどうしても無くしてしまうから困る、があったから整理整頓については全く治る様子を見せずに小学校を終えてしまった。

 


そうして今、部屋がひどい。

ごみごみごみ。液体が出るものだけは床に置かない!というマイルールのおかげでドロッとか、ベチャッ、となることはないものの、菓子パンや服のタグなどの紙、ビニール系のゴミが床には敷き詰められている。

 


角のクローゼットコーナーには、一人暮らし用のクローゼットを二つ作ったのになお飛び出る服の山々が積み重なる。あれ、私の体って何人分あるんだ?

 


そうして極め付けは水回りである。トイレとお風呂は、髪の毛をとったり埃をとったりブラシで磨いたり、とある程度算段は取れるのだが、問題はシンク。

 


そう、シンクの中には数ヶ月洗っていない洗い物の山脈が層を成している。もうこれは発掘不可です。遺跡があるので工事はやめてくださーいってレベルである。実際奈良や京都ってそういう風にして建築計画が狂うことがあるんでしょう?

話をずらそうとして奈良京都の皆様には失礼な真似をしたが、とりあえずもう水回りの片付けが壊滅的なのであった。

だって、お皿の水が…粘液になってる…

 

 

 

ところで近藤麻理恵を皆さんはご存知だろうか。そう、あのときめき基準の片付けを勧め、今や全米に影響力を持つ日本人の一人として名前が上がるほどの、片付けコンサルタント、通称こんまりさんである。

彼女のポリシーといえばこれである。

「ときめかないものは捨てましょう!」

 


彼女の声が、昨日の私に急に響いた。

今のシンクは?今の服は?今のリビングは?

 


今の生活は?

 


ときめかない!!!!

ぜんっぜんときめきないよ!!!!

 


ときめきを基準に考えた瞬間、私の人生が萎びたものに思えてしまって、背筋に冷たいものが走る。

せっかく診断をもらって、今までと違う日々が始まって、それを受け入れて穏やかに過ごせるようになったのに…。

部屋がこのままじゃ、鬱々とした日々を引きずっちゃう!

 


そんな予感がビンビンとしてしまって、私は即座に、ゴミ袋へ手を伸ばしたのであった。

 

 

 

 


そうして1時間後にはいくつかのゴミ袋をパンパンにして、断捨離をすることができた。

前の冬に着なかったセーターやダウン、この夏着たいと思えない半袖の数々。

そして、シンクで眠る、粘液まみれの食器たち。ちょっとだけ申し訳ないとは思ったが、背に腹は変えられぬと思い、自分の身勝手さを呪いながらゴミ袋へと数々のものを詰め込んだのであった。

 


自分で持てる分だけの、ものにすること。

自分の管理できる範囲の量にものを減らす。

そのためのメソッドとして、こんまりさんのときめき、というのは感情論のようでいて理にかなっているな、と思う。快不快なんて、無意識のうちに感じ取ってるものだから、物の選出に感性を活用するのは確かに道理が通っている。

 

それに、こんまりメソッドは勢いで一回綺麗な状態作っちゃおう!というコンセプトなのも気に入った。ADHDの自分は、集中すると周りが見えなくなるほど没頭する割に飽きると一切やりたくなくなる。その差が激しいために、毎日続ける片付けは苦しいものだった。が、一気にものを減らして仕舞えば日々の労力はかなり減るだろう。今までよりすっきりな生活を送れる予感が今のところ強く感じられる。

 

今クローゼットの中には、着たい服、ちょっと休みが待ち遠しくなる服たちだけが残っている。

その幸せといったら!こんまりメソッドはどうやら私に合っていたようである。

雑貨や文房具、何もかもが私のための、私ナイズされた生活。それは、これこそ本来あるべき生活の姿なのではないかな、と思えた。

 

私はこんまりメソッドで、生活の面舵を取り返すのである。

 


新しい自分は、軽やかに生きたい。

ほんの少しの、お気に入りたちを活用して、ミニマムかつ簡単楽ちんライフを目指すのだ。

 


そんなわけで、今日は捨ててしまった食器たちの代わりに新しいものを100円均一に求めに行ってきた。

新しいものは、白を基調に青い縁取りのまるで琺瑯のようなプラスチックの器と、トマトのようにつややかな赤のどんぶり。

どちらも私の家にはない色合いで、存在感がある。

 


帰ったら、早く洗って使っちゃおう。

そう考えると、ワクワクする。

私もワクワクの敷居が低くなったものだな、と笑ってしまうが、なんだかこんなことでも今は幸せなのだ。

 


先日から始まった新しい日々。

その傍らに、新しい仲間を呼び込んで。

良い生活を送っていけたら、いいな。

いや、良い生活にしていくんだぞ!自分!