揺らめく日々を生きる

もう一度、世界と触れ直す。

凪の海から紡ぐことばたちは

文章の重みとはなんだろうか。

文字の密度で決まるのなら、私はいくらでもかさ増しができるだろう。簡潔よりも冗長を取るなら、私にだって簡単に無駄な文を作り出すことが出来る。けれどそれは、重みではない。ただの薄めた、貧乏性のカルピスみたいな、そんな軽いものである。私が書きたいのは、そんなものじゃない。

私の書きたいものは、過密に綴られた一つ一つの文字から怨念とも言うべき重みを感じさせる、気迫のある文。それを私は求めている。

 

けれど、私が発達障害だと診断された直後の文は、相応に力あるものだったのに。

最近書いている文は、どこか柔らかすぎるようにも感じて、自分はこういう文も書くのか、と戸惑ってしまっている。

 


私が書きたい、私を的確に表した、私ならではのものは、相当な密度になるだろうと予感している。私がはてな匿名ダイアリーに書いたものは相応に重みを感じた。

 


私はみぞおちを抉り込むように殴り貫かれたい。重みのあるブローを受けたい。そのブローとは、自らの手で繰り出されることもあれば、外から加えられることもある。その衝撃を得たい。そしてその内から吐き出された反吐を形にしたいのだ。今はみぞおちを抉り込む何かが足りない。自分を殴っても、誰に殴られても、今の私には、響かなくなってしまった。

 


穏やかな毎日は続く。それは幸せなことなんだろう。けれど、私は私らしさを私の中で渦巻く混沌に寄りかかって作ってしまっていたんだな、と気付く。私は、悩んでる私自身を好んでいたんだ。

 


というよりも、幸せな自分自身、穏やかな自分自身を想像できていなかったんだと思う。

穏やかな日々を夢見ていた。

心に吹き荒ぶ嵐のような感情が、いつか止んでくれたらと願っていた。

けれど、心が凪いだ海のように静寂を得れば、どんなに帆を揚げようとも船は旅立てない。

今の私は、たった一人で無風の沖に呆然とボートの上で立ち尽くす、漂流者だ。

 

 

 

それほどまでに鮮烈な体験だったのだ。

私がいなくなればいい。私が間違ってる、私だけがおかしいのだと自分を責め続けた日々から急に解放されて、あなたのような人は、たくさんいると、あなたも世界の正しい一員なのだと知らされるということは。

私にとって、発達障害であると知ったことは、私もこの世界で生きられるという喜びの報せであり、アイデンティティの喪失でもあったのだった。

この世界が美しいことは事実であり、私の目が、私の存在が歪んでいるからこそ澄んだ世界で生きられないのだと思っていたのに、急に貴方もここで生きて良いと言われても。

私は私自身に違和感を持っている。だから、まだこの世界で生きて良いかどうか、実感がわかない。

 


今の私は、凪いだ心象に戸惑うことしかできない。暴風に突き動かされるようにして荒々しく紡いだかつての文たちに、何もかも勝てない。

文の強度が違うのだ。

あの、吐き出すしかないほどにこみ上げた思いたちが形を成すあの感覚を、今は薄らかにしか得られない。

 


私が夢見るのは、この凪いだ海の中で、いつか昔のような力ある文を書くことだ。誰に読まれるでもなく、私の自己満足として。

いつの日か、この凪いだ海の上で、煌めく波間や、魚が跳ねた水音、遠くの島の緑を美しく私の世界のものとして描けるようになる日が来るだろうか。

この美しい世界と、私を同列に語ることができるようになるだろうか。

そして、私はいつか、自らの手で、オールを漕ぐことができるようになるだろうか。

美しくきらめくような言葉たちを詰め込んだ、幸福に満ち溢れた文を連ねることができるようになれたら。

そして、その美しい世界を、私も軽やかに進めるようになれたら。


そうなれたら、どんなに幸せだろう。

 


今の私には、まだ夢見ることしかできない。

ただ凪いだ海に戸惑うだけ私が紡ぐ文は、まだ、弱々しい気がしてならないのだ。

ここ最近の私が書いた文は、何か、薄っぺらい。

まあ、毎日毎日、力ある文を繰り出せるようになるのは、相応に鍛錬も必要なのだろうけれども。

 

 

 


ただ一人、今はボートに乗り、沖の上で揺蕩うことしかできない。

 


けれど、今は確かに信じているのだ。遥か彼方に私の行くべき陸地があることを。

 


それだけで、今は幸せなのかもしれない。